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ご紹介, 蔵書(孝四郎)

阿部知二 『長編 冬の宿』、1926年

阿部知二 『長編 冬の宿』第一書房、1926年。

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阿部知二(1903-1973)は、岡山県生まれ、父の転勤に伴い、鳥取県、島根県、兵庫県姫路市に住む。東京帝国大学英文科卒業。「モダニズム文学の旗手」(ネットミュージアム兵庫文学館:https://www.artm.pref.hyogo.jp/bungaku/jousetsu/authors/a3/)として小説を発表、翻訳、評論も多い。

 

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献呈の辞あり。

 

長男、阿部良雄(1932-2007)は東京生まれ、フランス文学者、東京大学名誉教授。元子が所属していた東京大学大学院総合文化研究科表象文化論コースの教授であった。

在籍当時、表象文化論研究室は神々の時代と呼ばれていた。発足したばかりの新らしいコースで、渡邊守章、蓮實重彦、高橋康也といった名前を挙げるのも恐れ多い知性が、それぞれの専門領域、言語系統間の葛藤をものともせず、止むにやまれる動力に突き動かされたロコモティヴのように軋みながら発進したのである。「神々の」という形容は、少し下の世代にヴァーグナーを専門とする高辻知義がいたからと思われる。

研究室は、駒場キャンパス8号館4階の404A室、廊下の奥の暗いあたりにあった。大学院進学を希望し、大胆にも渡邊守章に直談判に及んで研究室を訪れた際、さほど広くない研究室で渡邊、蓮實という知の巨人が応接セットの小さめの椅子に身体を無理に合わせるようにして不躾な学生を待ち受けていた光景は、鮮明に眼の奥に焼き付けられている。

後続の、いわゆる全共闘世代周辺はしたがって、人間の時代と呼ばれていた。

「神々」のあいだにあって、阿部良雄は、著名な写真家にポートレイト写真を撮らせるのみならず白塗りの項の肉の段々を惜しげもなく晒し女装して舞台に立つでもなく、自分に投票しないようにと教員たちに耳打ちして回りながらも総長に見事に収まるでもなく、どこか万年文学青年のような雰囲気を醸し出していた。退官後の招待講演でも、緑と青の太目のストライプの織の荒いシャツといういたってカジュアルな出で立ちで、相変わらずの文学青年ぶりを発揮していた。

修士課程での希望テーマは、研究実績のある実演芸術系の研究のオルタナティヴとして、それまで住んでいたケルン市の近郊にある小さな町ブリュール出身の画家、マックス・エルンスト研究もあったため、当時、最も研究領域の近かった阿部良雄の文献購読の授業に参加した。アトリエの本棚にこの本があることなど、もちろん知らなかった。

題材はボードレールのテキストの輪読であったと記憶している。いまでも家のどこかに保存してあるはずだ。フランス語の(運用)能力には、フランス語、フランス文学専攻外の学生にしては力のあった元子は、19世紀の文学・美術思潮についての通り一遍の知識のみでも何とかなるであろうと参加したのだが、素養のなさを痛感することとなった。

阿部は、学生から答が出ないときに、辛抱強く待つのが倣いであった。購読の授業であるから、当然のことながら参加者の数は少なく、訳出の順番は早々に回ってくる。ある日 遂に、受講生は元子ひとりという、密かに恐れていた事態に相成った。

訳文のできていないところをそのままに参加し、阿部は、いつもの倣いで、元子が答えるまで待った。待ち続けてどのくらいの時間が経ったであろうか。おそらく数分のことであったその息詰まるような持続は、元子には永遠に終わらない苦行の時間に感じられた。

阿部は、嘆息するでもなく、怒るでもなく、いつもと変わらぬ様子で淡々と訳を明かす。教室には、夕方の黄色味がかった日差しが二つの影を黒く浮かび上がらせるように満ちていた。

あの、無にして稠密な測りがたい時間は、永遠に失われた。

ご紹介, 蔵書(孝四郎)

式場隆三郎 『ゴヤ 芸術と生涯』 1950年

式場隆三郎 『ゴヤ 芸術と生涯』 山雅房、1950年。

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式場隆三郎(1898-1955)は精神病理学が専門、医学博士。医業の傍ら、多分野に関わる執筆活動を展開、血縁者の職業も多彩である。新潟市美術館企画展「式場隆三郎:脳室反射鏡」(http://www.ncam.jp/exhibition/5602/)など、再評価の機運も高まっている。

 

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献呈の辞あり。

ご紹介, 所蔵(展子)

小田きた出演「音楽夢くらべ」音源

小田きた出演「音楽夢くらべ」音源

「音楽夢くらべ」はNHKの視聴者参加ラジオ番組で、課題は「音楽の印象を言葉に表し、新しい歌詞に即興の節をつける」というもの、正確な放送日時はわからないが、話の内容から、1960代初めと考えられる。孝四郎長男、邦郎の妻、展子の母、小田きたは当時72歳。

1)オープニング

https://drive.google.com/file/d/1vPkYO4CapkNGmQaMEaVsLISx887qBtIz/view?usp=sharing

審査員は、飯沢匡、伊馬春部、長門美保、高木東六、服部正の5名、ただし実際にコメントしたのは、飯沢、高木、服部のみである。
審査員のコメント以外の部分を以下の音源で聴くことができる。審査員の発言は書き起こし、必要に応じて要約した。

2)音楽の印象を言葉に表す

https://drive.google.com/file/d/1OZRw_nMpYsv2zVK-Qeo_XYEu-349OUME/view?usp=sharing

コメント

飯沢

あのーいまだかってこういう境地にあったことないとおっしゃいましたけども、立派に、そのー充分に、想像なさってね、あのーほんとにいまの音楽はなんか目まぐるしいっていいますかね、あっちーからも音が聞こえこっちからも音が聞こえ、こうなにかかけあいみたいなところがありますからね ちょうどこっち側とあっち側から あー呼びかけられて ひっぱられてるという感じが充分にありますし 確かに そしてこう 始まってまた終わるかと思うとまた始まる というね、なんかこう ぐるぐるまわったようなところがあるし、で 確かにいまおっしゃったような嬉しいような にぎやかなような いろいろ複雑なところが もう実によくおっしゃったし、大変結構です。

服部

本当にそのご高齢で こういうところに出ていらっしゃるということはもうこれはね ほんとに拍手をもって我々はお迎えしなきゃなんないとこね、それもう、やはり自信がおありになったと思うんですね これだけのね見事なね、このドリームをおっしゃるというのはねもう、相当のお心だと思うんです、こりゃ、大変なもんですよね、最近でたドリームじゃぼくは一番いいんじゃないかと思う。でいまのねあのたってってぃったってぃってっとってのは あれはそのテーマなんですよね、それをねおまごさんとやる子供らしい音楽ですね、それであのたかちきたかちきたかちきたかちき、といってんのがね、あれがなんかいそがしくていそがしくてしょうがない、というようなことをね、ひじょうにうまくもうなんともうまくおっしゃいましたね  これわたくしが聞いたときは高木先生とこれむずかしいからよわったな、ていってたんですよね、そしたらみごとにお答えがでちゃった、もなんとも頭下がりました。

 

3)歌詞に即興の節をつける

https://drive.google.com/file/d/1lwWxWu-GB1uJLegQp1726xevzcsoy3WT/view?usp=sharing

高木

いいですねえ、なんかこうさっぱりとして、それから遠い、あのぅ麦笛の感じが、でひどく愛嬌もなし、なんかなつかしさもそのなかにあって、非常に適当だと、思います、私は何と言っても驚くのは、72歳のねえ、お年寄りがこれだけハイカラなねえ、かなり 、えー近代の人が歌ってもね、おかしくないメロディが出たと、いうことが大変わたしはおどろきです。

司会が、とにかくいつも申し上げますが 明治の方はハイカラですよね」と受けると、審査員が口々に「ほんとにハイカラですねえ」、「いまよりずっとハイカラ」、「いまより」、「そりゃあ高木先生のやや認識不足で」、「明治の人のほうがね、特にね、あのーこのご年配の方は非常に音楽教育ね 非常に行き届いてた」などと盛り上がったところで、司会が、「あ、飯沢さんのおじい様」と持ち上げると、飯沢「ええそうそうそうそう」と満足げに答える(飯沢匡は和歌山県出身)。

4)

司会とのやりとり

https://drive.google.com/file/d/1orWnahCMQWcEbBvxcqJ3JgqKzpCF9Qfh/view?usp=sharing

「72歳のねえ、お年寄りがこれだけハイカラなねえ、かなり 、えー近代の人が歌ってもね、おかしくないメロディが出たと、いうことが大変わたしはおどろきです」という高木のコメントは注目されよう。この当時、この年代の女性が馴染んだ大衆歌謡は短調が多かった。その証拠に、伴奏者は短調で伴奏を進めようとしている。しかしきたは、それに引きずられることなく、長調の旋律を歌い始め、途中で転調、ヨーロッパ近代音楽の作曲法にもとづいた展開を見せているからだ。

きたは特に音楽の専門教育を受けたわけではないが、遺族によれば、晩年は熱心にラジオを聴いていたという。ただし、明治の人と一派ひとからげにされて、最後に司会者は「飯沢さんのおじい様」を引き合いに出して、飯沢を持ち上げている。

きたは、日本女子大卒、相馬御風に師事、晩年には大妻コタカ著『和裁講座』にも執筆協力(サイトの邦郎・展子プロフィール参照:https://www.multi-rhythm.com/profile/kunio_onchi)    しているにもかかわらず、「家のことしかしたことござぃません」などと自己アピールを過剰に制限している。

審査委員のひとり、長門美保は日本女子大學校附属高等女學校出身、審査員との稀なる共通項があるなど、はしたない女性であれば話題にしそうである。にもかかわらず、ぶっきらぼうに「家のことしかしたことござぃません」と言ったのはなぜか。

娘の展子が嫁いだ相手の姉で、海軍軍人と結婚、離婚して、展子と年の差10歳ほどしか違わない息子を2人連れて戻り同居していた人物の名前、三保子(読みはミオコ)を連想させるといった状況は、ひどくプレッシャーのかかるものではなかったか。

ラジオ番組出演の経緯は定かではないが、当時、NHKに(音楽の専門家でないにもかかわらず)三保子が出入りしていたことを考え併せるに、審査員の顔ぶれ、コメントは偶然とは思われない。恐ろしい環境に置かれた娘のために、精神力を振り絞って出演、自らの学歴などは口にせず、「相当のお心」などと水を向けられても、おとぼけに終始せざるを得なかった、きたの心中は察してあまりある。

伝えたかったことを公にできるまで60年もかかった世の中というものがあると言わねばなるまい。

 

 

 

ご紹介, 装幀の仕事(孝四郎)

水原 秋桜子『馬酔記』 1954年

水原 秋桜子 『馬酔記』 近藤書店、1954年

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水原秋桜子(1892-1981)は、孝四郎と獨逸学協会学校中学校で同窓。第一高等学校を経て、東京帝国大学医学部に入学、産科医としても活動した。

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「白地に木版技法で灰青と灰茶の地模様。文字は黒。表紙は灰青地で文字のみ。」( 恩地邦郎・編『新装普及版 恩地孝四郎 装本の業』(三省堂サイト;https://www.sanseido-publ.co.jp/publ/gen/gen4lit_etc/onchi_sohonwaza/)掲載、邦郎によるコメント、159頁)。

 

<参考>
獨協大学天野貞祐記念館1階の獨協歴史ギャラリーにて、第2 回企画展「獨逸学協会学校と文化芸術家たちの群像」が2010年10月31日から2011年4月30 日まで開催されている。

展覧会情報:https://www.dac.ac.jp/%E7%AC%AC%EF%BC%92%E5%9B%9E%E4%BC%81%E7%94%BB%E5%B1%95%E3%80%8C%E7%8D%A8%E9%80%B8%E5%AD%A6%E5%8D%94%E4%BC%9A%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%A8%E6%96%87%E5%8C%96%E8%8A%B8%E8%A1%93%E5%AE%B6%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E7%BE%A4%E5%83%8F%E3%80%8D

目録:
https://www.dac.ac.jp/pdf/gallery/2nd_exhibition.pdf

ご紹介, 装幀の仕事(孝四郎)

前田夕暮『夕暮遺歌集』 1951年

前田夕暮 『夕暮遺歌集』 長谷川書房、1951年

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前田夕暮(1883-1951)は、明治から昭和にかけて活動した歌人。神奈川県秦野市出身、秩父郡両神村と大滝村にも住まいし、その風景を歌った歌集を発表。

自然主義の歌人として知られる。

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「表紙はカバー共通。蕗の葉を木版技法で移したもの。黒と緑のかけ合せ。扉は朽葉の脈絡をフォトグラムしたもの。」( 恩地邦郎・編『新装普及版 恩地孝四郎 装本の業』(三省堂サイト;https://www.sanseido-publ.co.jp/publ/gen/gen4lit_etc/onchi_sohonwaza/)掲載、邦郎によるコメント、155頁)。

 

ご紹介, 蔵書(孝四郎)

市河彦太郎、市河かよ子 『フィンランド雑記』 1940年

 

市河彦太郎、市河かよ子 『フィンランド雑記』 黄河書院、1940年

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在フィンランド日本大使を務めた市河彦太郎(1896 – 1946)と妻、かよ子が帰国後出版したエッセイ。滞在中のアルヴォ・アールトとの交流などが描かれている。

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蔵書印あり。

ご紹介, 蔵書(孝四郎)

Coquiot, Gustave , Rodin à l’Hotel de Biron et à Meudon 1917

Coquiot, Gustave,  Rodin à l’Hotel de Biron et à Meudon,  Librairie Ollendorff,  Paris, 1917

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この220頁余になる柔らかくずっしりとした書物は、ロダンの秘書のひとりでもあった美術評論家で文筆家のギュスターブ・コキオ(1865-1926)の手になるもの、現在はロダン美術館として多くの人が訪れるパリ市内のビロン館と郊外南西部ムードンの館、彫刻家が住まいし制作したこの場所の空気を生き生きと伝え、その日々に親しく寄り添うような文体で書かれている。

ビロン館、ムードンの館の外観、アトリエ、展示室の様子、彫刻、デッサンなどの作品の、ヘリオグラフィーによる美しい写真、50枚弱が掲載されている。

 

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蔵書印あり。

巨匠への敬意からなのか、きわめて控えめに存在している。

 

ご紹介, 舞台創作(孝四郎), 装幀の仕事(孝四郎)

恩地孝四郎 『ゆめ』1935年

恩地孝四郎『ゆめ』新生堂、1935年。

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「土岐義麿の紹介で、鶴見花月園少女歌劇部主任として1年間勤務した際、創作した歌劇とその曲集。写真は箱」( 恩地邦郎・編『新装普及版 恩地孝四郎 装本の業』(三省堂サイト;https://www.sanseido-publ.co.jp/publ/gen/gen4lit_etc/onchi_sohonwaza/)掲載、邦郎によるコメント、135頁)。

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蔵書印あり。

「鶴見花月園」(横浜市鶴見区)は、孝四郎が「職」を得た数少ない場所のひとつである。子どものための遊園地にとどまらず、演劇、音楽分野の創作活動に関わった人々、客として訪れた文人や外国の公使などの顔ぶれからは、文化芸術活動を育んだ社交場として存在したことが容易に想像される。

「歌劇小曲集」と銘打っている本書は、舞台写真とともに提示された脚本のほか、舞台、衣装デザイン、楽譜も含んでおり、当時としては(海外に目を転じても)、特異な構成を成しているといえよう。

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さて、「はしがき」には、「幸に作曲諸家の援助を得て・・・」とあるが、この「作曲諸家」として名を連ねている弘田龍太郎、服部龍太郎、小代尚志のうち、職業的作曲家といえるのは弘田龍太郎のみで、服部龍太郎は一般には作詞家、音楽評論家など分筆活動で知られており、小代尚志は孝四郎本人である。ちなみに曲の内訳は、小代が6曲、弘田、服部が1曲ずつである。

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孝四郎は音楽についての書籍は欧文によるものも含め複数所蔵しているが、演奏も作曲も独学である。不安に駆られながらも「時」という曲の楽譜を開いてみると・・・、冒頭から無手勝流の証明ともいうべき、記譜法が目に飛び込んでくる。しかも頻繁に拍子が変わり、本人の手によるものらしい、出版後(!)の赤入れもある。

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ヨーロッパの先進的な芸術家への孝四郎の関心が並々ならぬものであるのは多分野、多国籍にわたる蔵書の数々に明らかで、音楽関係ではドビュッシーに対する関心が、蔵書(https://www.multi-rhythm.com/?p=2501)や、下記の「ドビュッシイ「子供の領分」それが画になるまで」などのエッセイに見られるとおりである。

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(ここに登場する「うちのチビ(二才未満)」は、年齢から推定するに孝四郎がその「純真」を愛した(邦郎が著書『親父がんばれ』のなかで述懐)次女暁子が、長岡光郎(東京大学文学部卒、書評紙『週刊読書人』編集長を務めた)と結婚して生まれた長男、長岡徹郎と思われる。)

ドビュッシーほどではないにしろ、ストラヴィンスキーについても、「あの激しさは真昼のようでもある」、「ロシア舞踊のための曲など著しく絵画的でもあり文学的でもある」などの言及がある。この頻繁に変わる拍子も、稚拙さをものともせず、ストラヴィンスキー的なものを表現しようとしたことの現れではなかったか(引用はいずれも恩地邦郎編『恩地孝四郎版画芸術論集 抽象の表情』より)。

本人がこの世にいない今となっては、その「作曲」の意図を確認する術もないが、このような「作曲」家と分け隔てなく名を連ねることを許された真正「作曲諸家」の寛容にただ感謝申し上げるばかりである。

このような父を見ていたためか、邦郎は作曲を安部幸明に師事している。

 

追記

鶴見花月園について、実情に合わない記述を修正した(3月18日)。

 

ご紹介, 作品(展子), 所蔵(展子)

恩地(小田)展子、NHK新潟放送合唱研究会、同QK子供サークル活動記録

恩地(小田)展子、NHK新潟放送合唱研究会、同QK子供サークル活動記録

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恩地(旧姓小田)展子が、邦郎と結婚前、疎開先の新潟で、NHK新潟放送合唱研究会、同QK子供サークルにピアニストとして所属していた時代に、実演、「子供の時間」で放送された放送劇のひとつ、「雪のなかのトランプたち」の台本コピー、メンバー出席簿。展子自身によって、付箋で注意が喚起されている。展子手書きの楽譜が残されていることから、この作品に関しては展子が作曲したものと思われる。

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展子はピアノを谷康子氏に師事。東京音楽学校(現東京藝術大学)上野児童音楽学園尋常科に学んだ(邦郎プロフィール参照:https://www.multi-rhythm.com/profile/kunio_onchi)が、作曲については独学。ただし、残されたノートには、音楽史などの専門書を書き写して自習した跡が見られる。

また作曲コンクールに応募しており、その楽譜(時代を考えれば当然といえる「日の丸の歌」)と、朝日新聞東京本社企画部長・遠山孝氏よりの、入選には至らなかったものの「全國からの應募總数四千三百七十二編中最後の審査の三十一編のうちに選ばれましたことをお知らせいたします。」とのの丁重な手紙(昭和二十四年四月十六日付)が保存されていた。

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展子の父、小田末吉(先祖は新潟県出雲岬の宮大工)は建築家、小田組経営、第二次世界大戦前に北京出張所を持ち、疎開先の新潟でも設計に携わる(写真)。母、きたは島根県出身、日本女子大学文學部卒、足利時代の美術を研究する傍ら相馬御風に師事、文筆活動も行った。水引の細工物を作るなど、手先の器用さは元子の記憶に印象深く残っている。写真は日本女子大学卒業アルバムより。

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展子の母、きたについて、相馬御風に師事していたときに、早稲田大学文学部の学生に赤線区域に連れられていったことがあり、女将の、ここはあなたのようなかたが来るところではないとの心遣いにより、裏口から退出したというエピソードを元子はたびたび聞かされていた。くりっとした目が可愛らしく、小柄にもかかわらずメリハリの効いたプロポーションは、当時としては目立つ風貌であったと思われる。恩地家では誤解されたこともあったが、知人に青鞜社メンバーはあったものの、運動には参加しておらず、いたって古風な躾を体現していた。ちなみに息子は文学部を志望したものの許されず、早稲田大学理工学部に進学した。

 

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元子宛の葉書は、85歳のときに書いたもの。書き出しといい、自分の娘である展子についてのコメントといい、笑い声による終わり方といい、文章の冴えは85歳という年齢の印象を遥に超えるものである。

ご紹介, 著作(邦郎)

恩地邦郎 『芸術と教育』 1971年

恩地邦郎 (著・装幀・挿絵)『芸術と教育』 第一法規 1971年

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「これからの教育の中で、基本的な役割を果たすものは、芸術でなければならない。」

明快な一文で始まる、邦郎50代を迎えて初めて出版した著書、明星学園の同僚、のちの和光大学教授の武者小路穣氏に執筆を勧められたと「あとがき」にある。装幀の文字が明朝でないのは、孝四郎を意識してのことであろうか(孝四郎は明朝を好み「恩地明朝」などと言われるくらいであった)。

読み進めていくと、当時の学生との率直なやりとりに学園の様子が活き活きとよみがえる。邦郎が亡くなって落ち着いたころ、同僚ご夫妻(いずれも卒業生)が訪ねていらして、ご夫人が、印象派の画家について、「な、酸っぱいだろ?」と邦郎が言ったことが記憶に残っていると、授業の様子などを教えてくださった。長身で天然パーマであったところから、学生がつけたニックネームは、「きりんキャベツ」。

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幼稚園時代はミロがお気に入り、小学校(おそらく低学年)でイヴ・クラインのボディ・ペインティングに衝撃を受け・・・、といった元子の美術との出会いは、両親、特に父によってアウトラインが引かれていたわけだが、高校時代にモンドリアンに接したのは、この邦郎の著書によるものであったかと思う。マンテーニャのような、当時は美術史のメインストリームに挙がってこない画家を早くから知っていたのも、この本がきっかけであったかもしれない。

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旅のエッセイの挿絵以外は、自分の作品を紹介せず、孝四郎の作品にも言及していない。節度のあるところが邦郎らしい。
孝四郎を通じて知り合った文学関係の友人たちについても、子供の教育に関して触れたりしている程度である。

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妻の役割に時代を感じるところはあるが、話題に挙がっている音楽の、ジャンル越境的な固有名は、恩地家の食卓がモデルであろう。プロコフィエフと島倉(千代子)の取り合わせなど、状況によっては今でも顰蹙を買うのではないか。