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ご紹介, 装幀の仕事(邦郎)

赤井米吉『愛と理性の教育』   1964年

赤井米吉『愛と理性の教育』 平凡社、1964年。

大正デモクラシーの機運が高まるなか、自由教育の実践につとめた教育者、赤井米吉(1887-1974)による著作。

  

   

 

 

ご紹介, 装幀の仕事(邦郎)

『この道 赤井米吉遺稿集』 1975年

赤井つる(発行)『この道 赤井米吉遺稿集』1975年。

 

                     

 

 

               

 

教育者、赤井米吉(1887‐1974)の妻、つる編集による遺稿集。

大正デモクラシーの機運が高まるなか、自由教育の実践につとめた赤井米吉は、邦郎が美術教師を、後に高等学校校長を長く務めた明星学園のほか、金沢女子専門学園、ふじ幼稚園を創立している(参考:建学の精神・沿革|明星学園 – 明星学園 (myojogakuen.ed.jp))。

 

ご紹介, 所蔵(孝四郎)

美術雑誌『アトリエ』臨時増刊   1936年

美術雑誌『アトリエ』臨時増刊 1936年。
ピカソ素描集

図版のうち「色刷二葉」は「アルルカン」(「原色版」)、「ルシアン バレー衣装」(「オフセット版」)。掲載されている衣装デザインは、エリック・サティ作曲《パラード》の曲芸師のコスチューム。

孝四郎によるサインが、カバーと見返しにあり。ドイツ語を学んだ孝四郎ゆえの
「k.onzi 」(オンツィ)という表記。

メモらしき紙を貼り付けた痕跡あり。

 

ご紹介, 作品(轍)

恩地 轍  小品

孝四郎 父、轍の小品。

保管されていた茶封筒に、邦郎の文字で
「恩地轍の墨絵」とある。

ご紹介, 作品(律子)

恩地 律子  小品

孝四郎 妹、律子の小品。

水彩画、鉛筆画、多数。
描かれているのは物語の一場面を思わせるような女学生や子供、兵隊など。続き物のように描かれているページもある。
ほかに水彩で風景、花。鉛筆で人物の習作など。

 

 

兄 哲三郎に宛てた葉書の一部。
住所は、鹿児島市第七高等学校寄宿舎、市内下宿先、小田原市など。
自作の水彩のほか、市販の絵葉書に、文字を面白くレイアウトしたものもある。
長兄、剛宛ての葉書もある。

保管されていた茶封筒に、邦郎の妻、展子の文字で
「明治四十三年一月三十日 行年十七才」とある。

ご紹介, 装幀の仕事(孝四郎)

壇 一雄『リツ子・その愛』 1950年

壇 一雄 『リツ子・その愛』 作品社、1950年。

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壇一雄(1912-1976)、山梨県生まれ。幼い子供を遺して逝った妻、律子との福岡での生活を描いた『リツ子・その愛』は『リツ子・その死』とともに、従軍と中国放浪の約十年間の沈黙ののちの、壇一雄の文壇復帰作。

表紙について「ピンクと淡黄土の重ね塗り。」とある(恩地邦郎・編『新装普及版 恩地孝四郎 装本の業』(三省堂サイト;https://www.sanseido-publ.co.jp/publ/gen/gen4lit_etc/onchi_sohonwaza/)掲載、邦郎によるコメント)。

孝四郎と妻のぶとの関係は、ひと言で括れるものではないが、日常生活におけるそれは邦郎によれば、のぶに頭が上がらないというものだった。孝四郎が亡くなってからも、食卓で「土地と家は私のもの」と言い放つのぶを、元子は鮮明に記憶している。

食事時を最も長く一緒に過ごしたのは邦郎の妻、展子で、のぶの健康を配慮した日々の献立も残されている。邦郎が知らないエピソードの語り部でもあり、そのひとつが、のぶが紫の着物を欲しがったときに孝四郎に言われた、紫は鼻の高い人でないと似合わないというものであった。のぶと展子の関係も曰く言い難いものであったが、本音をこぼすようなこともあったようである。頭が上がらないとはいえ、愛嬌のあるところを孝四郎は愛でていたのかもしない。「おおのぶさん、このぶさん」と呼んでいたという。

 

 

ご紹介, 装幀の仕事(孝四郎)

壇 一雄『リツ子・その死』1950年

壇 一雄『リツ子・その死』作品社、1950年。

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壇一雄(1912-1976)、山梨県生まれ。幼い子供を遺して逝った妻、律子との福岡での生活を描いた『リツ子・その死』は『リツ子・その愛』とともに、従軍と中国放浪の約十年間の沈黙ののちの、文壇復帰作。出版日は出来事の時系列と違い、こちらが5日早い。

箱について「木版技本で葉を配している。」とある(恩地邦郎・編『新装普及版 恩地孝四郎 装本の業』(三省堂サイト;https://www.sanseido-publ.co.jp/publ/gen/gen4lit_etc/onchi_sohonwaza/)掲載、邦郎によるコメント、152頁。)。

 

ご紹介, 所蔵(孝四郎)

映画主題歌 楽譜 《不良青年》

『映画之友』8月號(挿入付録) 「映画主題歌 楽譜」 《不良青年》主題歌。

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《不良青年》(1936)は、ジャン・ボワイエ監督、ダニエル・ダリュー主演、弁護士として働きたい娘を、結婚させるために父親が仕組んだ大芝居。主題歌はジョルジュ・ヴァン・パリスによる。KINENOTEの作品紹介によれば、「日本未公開」とあるが、主題歌のみが知られるようなったのだろうか。

作品情報
http://www.kinenote.com/main/public/cinema/detail.aspx?cinema_id=15603&key_search=%E4%B8%8D%E8%89%AF%E9%9D%92%E5%B9%B4

不良青年、実は弁護士会長の長男(アンリ・ギャラ)が「あれは不良だ」「C‘est un mauvais garçon」)を歌う映像を下記アドレスで観ることができる。https://www.youtube.com/watch?v=Ljq3Jr0d6Qw

 

 

 

 

 

 

 

ご紹介, 所蔵(孝四郎)

『アヴェ・マリア』欧米樂譜出版社

 

『アヴェ・マリア』欧米樂譜出版社。

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映画《Mad About Music》(1938)の「主題歌」、「口笛が大好き」と「アヴェ・マリア」の楽譜。

映画は、映画検索サイト「KINENOTE」に項目はないものの、同年公開の「年ごろ」の紹介に「アヴェ・マリア」として言及があり、ネット・オークション情報に挙がっている『新潟松竹館週報』に同じ写真が掲載されている。新潟県在住と思しき人物のブログにも「アヴェ・マリア」と記載されていることから、1939年に上映されたのではないかと推察する。

新潟松竹館週報 昭和14年4月1日号

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「新潟松竹館」とは、「消えた映画館の記憶」サイトの、新潟市の映画館(
https://hekikaicinema.memo.wiki/d/%bf%b7%b3%e3%bb%d4%a4%ce%b1%c7%b2%e8%b4%db)に掲載されている「松竹映画館」のことであろう。

 

ストーリーは、女優としての成功と引き換えに、14歳の娘(ディアナ・ダービン)の存在を隠していた女性が、娘の機転と偶然出会った指揮者の助けをきっかけに、その存在を公にし、大団円となる、というもの。

「アヴェ・マリア」(J.S.バッハ/グノー)は音源のみだが、「口笛が大好き」を歌う場面は観ることができる。

「アヴェ・マリア」
https://www.youtube.com/watch?v=ppn0kEfiwDE

「口笛が大好き」
https://www.youtube.com/watch?v=WvHW_ecyCbs

ディアナ・ダービン(1921-2013)はカナダ人の女優、歌手、1930~1940年代にハリウッド映画で活躍した(KINENOTE : http://www.kinenote.com/main/public/cinema/person.aspx?person_id=2351&key_search=%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%B3%EF%BC%89%E3%80%82
ディアナ・ダービンと言えば、日本で圧倒的に有名なのが、1年前に制作された《オーケストラの少女》(http://www.kinenote.com/main/public/cinema/detail.aspx?cinema_id=1226)であろう。

今でもクラシック音楽映画の名作として上映される機会がある(東京都写真美術館サイト:https://topmuseum.jp/contents/exhibition/movie-3323.html)。

おそらく少女時代にこの映画を観る機会があり、いたく感銘を受けた展子は、名場面を元子に語り聞かせるのみならず、ディアナ・ダービンの十八番を元子にも歌わせることにした。たとえば、モーツァルトの「アレルヤ」である。

ディアナ・ダービンがモーツァルトの「アレルヤ」を歌う場面。

https://www.youtube.com/watch?v=wSo88XUMZZ8&t=485s

展子同様、絶対音感を持ち、ハイソプラノだった元子は、母が喜んでくれるので、嬉々として歌っていた。展子は、ダービンが帽子の羽によって、隠れても存在が知れてしまうという演出のアイデアも大層気に入ったようで、そのことは写真のなかの当時の元子の扮装が物語っている。もっとも、日本には羽が垂直についているタイプはなかったようで、 元子が被っていたのは、ただのベレー帽であった。

 

 

 

ご紹介, 装幀の仕事(孝四郎)

サン・サーンス『音樂の十字街に立つ』1925年

サン・サーンス『音樂の十字街に立つ』(馬場二郎譯)、新潮社、1925年。

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シャルル・カミーユ・サン=サーンス'(18353-1921)は、フランスの作曲家、ピアニスト、オルガニスト。早熟であり且つ長寿で、さまざまなジャンルにわたる約600の作品を残した。
分筆にも才脳を発揮。本書は(訳者「序」によれば)、「パリイの大學とパリイ音楽院の研究科の學生徒のために論じた論評や、興味の深い随筆と旅行記その他」を集めたもの、ただしタイトルは訳者の創案によるという。

今年は作曲者没後100年にあたる。

「紺青の紙と小豆色の布の貼り合せ。青文字・平の模様は金箔押し。箱の青・平は茶色ベタ刷りで文字白抜き。」(恩地邦郎・編『新装普及版 恩地孝四郎 装本の業』(三省堂サイト;https://www.sanseido-publ.co.jp/publ/gen/gen4lit_etc/onchi_sohonwaza/)掲載、邦郎によるコメント、113頁)。

 

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蔵書印あり。遊び心を感じさせるような押し方である。