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ご紹介, 所蔵(展子), 所蔵(邦郎)

のぶの通帳

のぶの通帳

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孝四郎妻、のぶが使っていた通帳。

晩年、思うように外出できなくなってからは、のぶの代わりに展子が通帳と印鑑を預かり、銀行に赴いていた。

のぶは、山梨県石和町の出身、山梨県人と○○県人(真偽のほどは定かでないので固有名詞は伏せる)の歩いたあとは草も生えないといわれる県民性を体現しているような人物で、その山梨県人気質を彷彿とさせる爆笑エピソードが、家にも実家の親戚の昔語りにも溢れていた。

そのひとつが通帳にまつわるもので、実家の親戚が家に泊まりに来た時に、夜こっそりとやってきて、通帳を見せながら「ほら、こんなにある」と言ったというものである。生家は金融業であったため、県民性がさらに色濃く表れたのだろうか。実家が裕福であるという絶対の自信ゆえか、はたまた生来のものなのか、その傍若無人の振る舞いは独特であり、財界に力のあった親戚を自分のほうが年長であるため○○○坊主などと呼ばわり、近隣の、フィクサーと呼ばれた財界人のことを「あれは戦後、鉄くずを売って儲けたのよ」と嘯くなど、数々の決め台詞や名語録があった。孫にとっては、かなり難しいおばあちゃまであったが、どこか憎めないところもあった。

一方、孝四郎との文化的な環境の違いは推して知るべし、山梨県立甲府高等女学校在学中、孝四郎が学校に来て、体育館でピアノを弾いているのを、「女の子みたあじゃね」と、級友とともに遠くからこっそり見ていたという(展子伝)。それゆえ、家には、悲喜こもごもといったレベルには収まらない数々の事件が起こった。いやむしろ、この異文化接触が、めぐりめぐって孝四郎の創作に繋がったといえるかもしれない。

 

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フランスに出発する駒井哲郎を見送る孝四郎の傍らで、孝四郎に視線を添わせることなく、カメラに向かって、しっかりお得意のポーズをとる、のぶ。

 

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展子のピアノ室の前で、元子と。撮影者は邦郎、部屋にひっそりといるのが展子。

 

 

ご紹介, 鋳金の仕事(邦郎)

東京藝術大学(東京美術學校)美術工芸科鑄金部卒業製作 1941年

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邦郎の東京藝術大学(東京美術学校)美術工芸科鑄金部卒業製作(昭和16年)
『卒業製作写真 昭和十六年十二月』(東京藝術大学附属図書館蔵)によれば
タイトルは「樹木より(梅の木)」、ほかの学生の「吾も逝かん決意」、「壁面戰陣譜 待機、激戰、勝利の前進」といった時代の空気を想起させる作品とは、雰囲気を異にしている。梅は、孝四郎の妻、のぶが好んでよく眺めていた、庭の蝋梅のことと思われる。

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美術學校学生時代は、学校に行かず映画館にばかり通っていたというのが邦郎お得意の昔語りであったが、『金工製作法 合金法 着色法』(東京美術學校教授・清水亀藏先生述、昭和十二年五月謄寫(非売品)、印刷所:五十川謄寫堂)が書棚に大切に保管されているといった、折り目正しいところも。

なぜ鋳金部ではなく彫金部であるかについては記述なし。

左上に鉛筆で、邦郎の筆跡で「恩地」とある。

奥付には「本書は東京美術學校工藝科彫金部に於て講義用として百部限の謄寫せるものなり。無断にて複製又は轉載を禁ず」と、学生五名の名前とともに書かれている。