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ご紹介, 舞台創作(孝四郎), 装幀の仕事(孝四郎)

恩地孝四郎 『ゆめ』1935年

恩地孝四郎『ゆめ』新生堂、1935年。

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「土岐義麿の紹介で、鶴見花月園少女歌劇部主任として1年間勤務した際、創作した歌劇とその曲集。写真は箱」( 恩地邦郎・編『新装普及版 恩地孝四郎 装本の業』(三省堂サイト;https://www.sanseido-publ.co.jp/publ/gen/gen4lit_etc/onchi_sohonwaza/)掲載、邦郎によるコメント、135頁)。

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蔵書印あり。

「鶴見花月園」(横浜市鶴見区)は、孝四郎が「職」を得た数少ない場所のひとつである。子どものための遊園地にとどまらず、演劇、音楽分野の創作活動に関わった人々、客として訪れた文人や外国の公使などの顔ぶれからは、文化芸術活動を育んだ社交場として存在したことが容易に想像される。

「歌劇小曲集」と銘打っている本書は、舞台写真とともに提示された脚本のほか、舞台、衣装デザイン、楽譜も含んでおり、当時としては(海外に目を転じても)、特異な構成を成しているといえよう。

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さて、「はしがき」には、「幸に作曲諸家の援助を得て・・・」とあるが、この「作曲諸家」として名を連ねている弘田龍太郎、服部龍太郎、小代尚志のうち、職業的作曲家といえるのは弘田龍太郎のみで、服部龍太郎は一般には作詞家、音楽評論家など分筆活動で知られており、小代尚志は孝四郎本人である。ちなみに曲の内訳は、小代が6曲、弘田、服部が1曲ずつである。

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孝四郎は音楽についての書籍は欧文によるものも含め複数所蔵しているが、演奏も作曲も独学である。不安に駆られながらも「時」という曲の楽譜を開いてみると・・・、冒頭から無手勝流の証明ともいうべき、記譜法が目に飛び込んでくる。しかも頻繁に拍子が変わり、本人の手によるものらしい、出版後(!)の赤入れもある。

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ヨーロッパの先進的な芸術家への孝四郎の関心が並々ならぬものであるのは多分野、多国籍にわたる蔵書の数々に明らかで、音楽関係ではドビュッシーに対する関心が、蔵書(https://www.multi-rhythm.com/?p=2501)や、下記の「ドビュッシイ「子供の領分」それが画になるまで」などのエッセイに見られるとおりである。

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(ここに登場する「うちのチビ(二才未満)」は、年齢から推定するに孝四郎がその「純真」を愛した(邦郎が著書『親父がんばれ』のなかで述懐)次女暁子が、長岡光郎(東京大学文学部卒、書評紙『週刊読書人』編集長を務めた)と結婚して生まれた長男、長岡徹郎と思われる。)

ドビュッシーほどではないにしろ、ストラヴィンスキーについても、「あの激しさは真昼のようでもある」、「ロシア舞踊のための曲など著しく絵画的でもあり文学的でもある」などの言及がある。この頻繁に変わる拍子も、稚拙さをものともせず、ストラヴィンスキー的なものを表現しようとしたことの現れではなかったか(引用はいずれも恩地邦郎編『恩地孝四郎版画芸術論集 抽象の表情』より)。

本人がこの世にいない今となっては、その「作曲」の意図を確認する術もないが、このような「作曲」家と分け隔てなく名を連ねることを許された真正「作曲諸家」の寛容にただ感謝申し上げるばかりである。

このような父を見ていたためか、邦郎は作曲を安部幸明に師事している。

 

追記

鶴見花月園について、実情に合わない記述を修正した(3月18日)。