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恩地 邦郎 / Kunio Onchi

恩地孝四郎の長男、教育者、私立高校経営者、画家、文筆家、鋳金、装幀、学校演劇創作、
恩地孝四郎の創作活動の継承に関わる諸活動

「陽気」(1960)
「陽気」(1960)
明星学園高等学校にて、第一回目の校長時代
明星学園高等学校にて、第一回目の校長時代
軽井沢バンガローにて
軽井沢バンガローにて
荻窪自宅応接間にて、孝四郎と
荻窪自宅応接間にて、孝四郎と
荻窪自宅応接間にて
荻窪自宅応接間にて
スキー場にて
スキー場にて
古希展記念パーティにて、妻・展子の伴奏で歌う
古希展記念パーティにて、妻・展子の伴奏で歌う

略歴
恩地邦郎(おんちくにお)
1920年 恩地孝四郎の長男として東京に生まれる。
1937年 旧制明星学園中学校卒業。
1941年 東京美術学校(現東京藝術大学)工芸科卒業。
1942年 明星学園中学校講師。
1943年 明星学園教諭。
1946年 雑誌の装画を始める。
1947年 油絵制作を始める。
1949年 前衛美術会に入会、約1年で退会。
1950年 和声学、作曲法を学ぶため作曲家安倍幸明に師事。
1952年 学校劇の脚本を手掛け、上演する。
1957年 第一回個展を銀座養清堂で開く。63年までほぼ毎年開催。
1965年 明星学園高等学校校長就任。
1971年 『芸術と教育』(第一法規出版)発行。
1973年 第7回個展、以降、小品展と並行して開催。
1778年 明星学園高等学校校長に就任、80年辞任。
1982年 『恩地孝四郎 装本の業』発行。
1983年 三期目の明星学園高等学校校長に就任、87年辞任。
    『親父がんばれ』(講談社)発行。
1985年 東京私学教育研究所、臨教審対策委員、国際教育研修委員会委員長。
1986年 ジョルジュ・ポンピドゥ・センター(パリ)「前衛芸術の日本展」に恩地孝四郎
    作品出品、開会式に招待され、列席。
1987年 WKO版画研究所を設立。孝四郎版画の版木、摺り研究、制作を行う。
    明星学園顧問に就任、1993年辞任。
1989年 ハーヴァード大学燕京研究所にて、恩地孝四郎の創作について講演。ギャルリー
    東京ユマニテにて、恩地邦郎の摺りによる「恩地孝四郎初期抽象作品展―「月映」
    を中心に―」開催。
1990年 銀座アートセンターにて「恩地邦郎古希展」、吉祥寺第一ホテルにて「恩地孝四
    郎古希展記念の会」を開く。
1992年 恩地邦郎編『抽象の表情 恩地孝四郎版画芸術論集』『装本の使命 恩地孝四郎
    装幀美術郎集』(阿部出版)が出版される。
1993年 アート・ミュージアム・ギンザにて、第13回個展を開催。
1997年 『随想 春の雪』(ぶんしん出版)を出版。
2001年 逝去(享年81歳)。


恩地 展子

恩地邦郎の妻、ピアニスト、ピアノ教師、衣服制作。
小田末吉、きたの四女として東京に生まれる。
ピアノを谷康子氏に師事。東京音楽学校(現東京藝術大学)上野児童音楽学
園尋常科に学ぶ。
成蹊高等女学校を経て、専攻科入学。新潟県村松市に疎開。
この間に、NHK新潟放送合唱研究会、同QK子供サークルピアニスト、県立村松中学校、市立白新中学校助教諭を務める。傍ら、衣服制作に勤しむ。
邦郎と結婚後はNHK東京放送児童合唱団専属ピアニストを務める。同時に自宅でピアノレッスン開始、定期的に成果発表会を行う。

NHK新潟JOQKスタジオ
NHK新潟JOQKスタジオ
東京・NHK放送センター、スタジオにて
東京・NHK放送センター、スタジオにて
新潟にて、中学校同僚と
新潟にて、中学校同僚と
展子制作ワンピース(1954年)、支那(中国)で母・きたが購入したレース地使用
展子制作ワンピース(1954年)
支那(中国)で母・きたが購入したレース地使用
ディーテイル
ディーテイル
 


小田末吉
小田きた

展子の父、小田末吉は一級建築士、小田組経営、第二次世界大戦前に北京出張所を持つ。
母、きたは、日本女子大学文學部卒、足利時代の美術を研究する傍ら相馬御風に師事、文筆活動。

小田組北京出張所の前にて、現地スタッフ、通訳、ボーイ等と。
小田組北京出張所の前にて、現地スタッフ、通訳、ボーイ等と。
大妻コタカ著『和裁講座』
大妻コタカ著『和裁講座』
 
 
「はしがき」頁 小田きた(日本女子大学出身)の執筆協力へ感謝の意が表されている
「はしがき」頁
小田きた(日本女子大学出身)の
執筆協力へ感謝の意が表されている