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ご紹介, 装幀の仕事(孝四郎)

壇 一雄『リツ子・その愛』 1950年

壇 一雄 『リツ子・その愛』 作品社、1950年。

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壇一雄(1912-1976)、山梨県生まれ。幼い子供を遺して逝った妻、律子との福岡での生活を描いた『リツ子・その愛』は『リツ子・その死』とともに、従軍と中国放浪の約十年間の沈黙ののちの、壇一雄の文壇復帰作。

表紙について「ピンクと淡黄土の重ね塗り。」とある(恩地邦郎・編『新装普及版 恩地孝四郎 装本の業』(三省堂サイト;https://www.sanseido-publ.co.jp/publ/gen/gen4lit_etc/onchi_sohonwaza/)掲載、邦郎によるコメント)。

孝四郎と妻のぶとの関係は、ひと言で括れるものではないが、日常生活におけるそれは邦郎によれば、のぶに頭が上がらないというものだった。孝四郎が亡くなってからも、食卓で「土地と家は私のもの」と言い放つのぶを、元子は鮮明に記憶している。

食事時を最も長く一緒に過ごしたのは邦郎の妻、展子で、のぶの健康を配慮した日々の献立も残されている。邦郎が知らないエピソードの語り部でもあり、そのひとつが、のぶが紫の着物を欲しがったときに孝四郎に言われた、紫は鼻の高い人でないと似合わないというものであった。のぶと展子の関係も曰く言い難いものであったが、本音をこぼすようなこともあったようである。頭が上がらないとはいえ、愛嬌のあるところを孝四郎は愛でていたのかもしない。「おおのぶさん、このぶさん」と呼んでいたという。

 

 

ご紹介, 装幀の仕事(孝四郎)

壇 一雄『リツ子・その死』1950年

壇 一雄『リツ子・その死』作品社、1950年。

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壇一雄(1912-1976)、山梨県生まれ。幼い子供を遺して逝った妻、律子との福岡での生活を描いた『リツ子・その死』は『リツ子・その愛』とともに、従軍と中国放浪の約十年間の沈黙ののちの、文壇復帰作。出版日は出来事の時系列と違い、こちらが5日早い。

箱について「木版技本で葉を配している。」とある(恩地邦郎・編『新装普及版 恩地孝四郎 装本の業』(三省堂サイト;https://www.sanseido-publ.co.jp/publ/gen/gen4lit_etc/onchi_sohonwaza/)掲載、邦郎によるコメント、152頁。)。

 

ご紹介, 装幀の仕事(孝四郎)

サン・サーンス『音樂の十字街に立つ』1925年

サン・サーンス『音樂の十字街に立つ』(馬場二郎譯)、新潮社、1925年。

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シャルル・カミーユ・サン=サーンス'(18353-1921)は、フランスの作曲家、ピアニスト、オルガニスト。早熟であり且つ長寿で、さまざまなジャンルにわたる約600の作品を残した。
分筆にも才脳を発揮。本書は(訳者「序」によれば)、「パリイの大學とパリイ音楽院の研究科の學生徒のために論じた論評や、興味の深い随筆と旅行記その他」を集めたもの、ただしタイトルは訳者の創案によるという。

今年は作曲者没後100年にあたる。

「紺青の紙と小豆色の布の貼り合せ。青文字・平の模様は金箔押し。箱の青・平は茶色ベタ刷りで文字白抜き。」(恩地邦郎・編『新装普及版 恩地孝四郎 装本の業』(三省堂サイト;https://www.sanseido-publ.co.jp/publ/gen/gen4lit_etc/onchi_sohonwaza/)掲載、邦郎によるコメント、113頁)。

 

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蔵書印あり。遊び心を感じさせるような押し方である。

 

ご紹介, 装幀の仕事(孝四郎)

水原 秋桜子『馬酔記』 1954年

水原 秋桜子 『馬酔記』 近藤書店、1954年

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水原秋桜子(1892-1981)は、孝四郎と獨逸学協会学校中学校で同窓。第一高等学校を経て、東京帝国大学医学部に入学、産科医としても活動した。

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「白地に木版技法で灰青と灰茶の地模様。文字は黒。表紙は灰青地で文字のみ。」( 恩地邦郎・編『新装普及版 恩地孝四郎 装本の業』(三省堂サイト;https://www.sanseido-publ.co.jp/publ/gen/gen4lit_etc/onchi_sohonwaza/)掲載、邦郎によるコメント、159頁)。

 

<参考>
獨協大学天野貞祐記念館1階の獨協歴史ギャラリーにて、第2 回企画展「獨逸学協会学校と文化芸術家たちの群像」が2010年10月31日から2011年4月30 日まで開催されている。

展覧会情報:https://www.dac.ac.jp/%E7%AC%AC%EF%BC%92%E5%9B%9E%E4%BC%81%E7%94%BB%E5%B1%95%E3%80%8C%E7%8D%A8%E9%80%B8%E5%AD%A6%E5%8D%94%E4%BC%9A%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%A8%E6%96%87%E5%8C%96%E8%8A%B8%E8%A1%93%E5%AE%B6%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E7%BE%A4%E5%83%8F%E3%80%8D

目録:
https://www.dac.ac.jp/pdf/gallery/2nd_exhibition.pdf

ご紹介, 装幀の仕事(孝四郎)

前田夕暮『夕暮遺歌集』 1951年

前田夕暮 『夕暮遺歌集』 長谷川書房、1951年

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前田夕暮(1883-1951)は、明治から昭和にかけて活動した歌人。神奈川県秦野市出身、秩父郡両神村と大滝村にも住まいし、その風景を歌った歌集を発表。

自然主義の歌人として知られる。

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「表紙はカバー共通。蕗の葉を木版技法で移したもの。黒と緑のかけ合せ。扉は朽葉の脈絡をフォトグラムしたもの。」( 恩地邦郎・編『新装普及版 恩地孝四郎 装本の業』(三省堂サイト;https://www.sanseido-publ.co.jp/publ/gen/gen4lit_etc/onchi_sohonwaza/)掲載、邦郎によるコメント、155頁)。

 

ご紹介, 舞台創作(孝四郎), 装幀の仕事(孝四郎)

恩地孝四郎 『ゆめ』1935年

恩地孝四郎『ゆめ』新生堂、1935年。

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「土岐義麿の紹介で、鶴見花月園少女歌劇部主任として1年間勤務した際、創作した歌劇とその曲集。写真は箱」( 恩地邦郎・編『新装普及版 恩地孝四郎 装本の業』(三省堂サイト;https://www.sanseido-publ.co.jp/publ/gen/gen4lit_etc/onchi_sohonwaza/)掲載、邦郎によるコメント、135頁)。

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蔵書印あり。

「鶴見花月園」(横浜市鶴見区)は、孝四郎が「職」を得た数少ない場所のひとつである。子どものための遊園地にとどまらず、演劇、音楽分野の創作活動に関わった人々、客として訪れた文人や外国の公使などの顔ぶれからは、文化芸術活動を育んだ社交場として存在したことが容易に想像される。

「歌劇小曲集」と銘打っている本書は、舞台写真とともに提示された脚本のほか、舞台、衣装デザイン、楽譜も含んでおり、当時としては(海外に目を転じても)、特異な構成を成しているといえよう。

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さて、「はしがき」には、「幸に作曲諸家の援助を得て・・・」とあるが、この「作曲諸家」として名を連ねている弘田龍太郎、服部龍太郎、小代尚志のうち、職業的作曲家といえるのは弘田龍太郎のみで、服部龍太郎は一般には作詞家、音楽評論家など分筆活動で知られており、小代尚志は孝四郎本人である。ちなみに曲の内訳は、小代が6曲、弘田、服部が1曲ずつである。

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孝四郎は音楽についての書籍は欧文によるものも含め複数所蔵しているが、演奏も作曲も独学である。不安に駆られながらも「時」という曲の楽譜を開いてみると・・・、冒頭から無手勝流の証明ともいうべき、記譜法が目に飛び込んでくる。しかも頻繁に拍子が変わり、本人の手によるものらしい、出版後(!)の赤入れもある。

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ヨーロッパの先進的な芸術家への孝四郎の関心が並々ならぬものであるのは多分野、多国籍にわたる蔵書の数々に明らかで、音楽関係ではドビュッシーに対する関心が、蔵書(https://www.multi-rhythm.com/?p=2501)や、下記の「ドビュッシイ「子供の領分」それが画になるまで」などのエッセイに見られるとおりである。

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(ここに登場する「うちのチビ(二才未満)」は、年齢から推定するに孝四郎がその「純真」を愛した(邦郎が著書『親父がんばれ』のなかで述懐)次女暁子が、長岡光郎(東京大学文学部卒、書評紙『週刊読書人』編集長を務めた)と結婚して生まれた長男、長岡徹郎と思われる。)

ドビュッシーほどではないにしろ、ストラヴィンスキーについても、「あの激しさは真昼のようでもある」、「ロシア舞踊のための曲など著しく絵画的でもあり文学的でもある」などの言及がある。この頻繁に変わる拍子も、稚拙さをものともせず、ストラヴィンスキー的なものを表現しようとしたことの現れではなかったか(引用はいずれも恩地邦郎編『恩地孝四郎版画芸術論集 抽象の表情』より)。

本人がこの世にいない今となっては、その「作曲」の意図を確認する術もないが、このような「作曲」家と分け隔てなく名を連ねることを許された真正「作曲諸家」の寛容にただ感謝申し上げるばかりである。

このような父を見ていたためか、邦郎は作曲を安部幸明に師事している。

 

追記

鶴見花月園について、実情に合わない記述を修正した(3月18日)。

 

ご紹介, 装幀の仕事(孝四郎)

野間宏(ほか)『文学的映画論』 1957年

野間宏(ほか)『文学的映画論』 中央公論社、1957年。

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野間宏(1915‐1991)は、戦後、小説、評論、詩の分野で活躍。
孝四郎没後の出版。孝四郎担当は表紙で、この時期に出版された新書サイズの書籍に同じデザインが使われている。カバーは書籍により違う人が担当していたようだ。この本のカバーは洋画家、芝清福による。

色違いで同じデザインの伊藤整著『女性に関する十二章』(1954)が、恩地邦郎・編『新装普及版 恩地孝四郎 装本の業』(三省堂サイト;https://www.sanseido-publ.co.jp/publ/gen/gen4lit_etc/onchi_sohonwaza/)に掲載されている(邦郎によるコメント「グレー白抜き模様に文字は黒。159頁)。

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野間宏「大衆映画論」のほか、佐々木基一「芸術としての映画」、花田清輝「映画監督論」、安部公房「映画俳優」、埴谷雄高「古い映画手帖」、椎名麟三「シナリオと映画精神」が収められている。

ご紹介, 装幀の仕事(孝四郎)

北原白秋・三木露風・川路柳虹編『現代日本詩選』 1925年

北原白秋・三木露風・川路柳虹編『現代日本詩選』  アルス 1925年.

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「臙脂色の荒目の紬に、背は空押しをした上に茶色の革を貼り、書名金箔押し。」
(恩地邦郎・編『新装普及版 恩地孝四郎 装本の業』(三省堂サイト;https://www.sanseido-publ.co.jp/publ/gen/gen4lit_etc/onchi_sohonwaza/)掲載、邦郎によるコメント、113頁)。

数多くはないが、自分の作品に蔵書印を押している場合もある。
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ご紹介, 装幀の仕事(孝四郎)

北原鐵雄(編)『最新科學圖鑑10 建設の科學 上』1932年

北原鐵雄(編)『最新科學圖鑑10 建設の科學 上』アルス 1932年

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「赤滑面クロスにニッケル箔と群青箔押し。グラビア印刷の写真が貼付されている。見返しは沈淡青・沈灰茶2色オフ。」(恩地邦郎・編『新装普及版 恩地孝四郎 装本の業』(三省堂サイト;https://www.sanseido-publ.co.jp/publ/gen/gen4lit_etc/onchi_sohonwaza/)掲載、邦郎によるコメント、131頁)。

 

 

ご紹介, 装幀の仕事(孝四郎)

横光利一 「赤い色」 1926年

横光利一 「赤い色」(横光利一著作集1) 金星社  1926年

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恩地邦郎・編『新装普及版 恩地孝四郎 装本の業』(三省堂;https://www.sanseido-publ.co.jp/publ/gen/gen4lit_etc/onchi_sohonwaza/)には同シリーズの2「マルクスの審判」が掲載されている。「淡灰茶シボ付紙に黒と茶。略装」とある(117頁)。