ご報告
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2016/10/20
「恩地邸」あるいは「恩地孝四郎邸」と称されている建築について
「恩地邸」あるいは「恩地孝四郎邸」と称されている建築(杉並区)は、1932年、遠藤新設計により建設された。
遠藤新の特徴的な片流れ屋根のアトリエからは、孝四郎の重要な作品が生まれ、孝四郎の死後は、長男・邦郎の絵画制作や邦郎を中心とした研究・調査の場などに用いられ、数多くの研究者や見学者、美術家などが訪れたが、法的係争の結果、解体され、存在しない。
法的係争、すなわち、孝四郎の長女・三保子の長男・宏、次男・惇を原告とし、邦郎の長女・元子を被告として、裁判所で審議などが行われていたことは、当然のことながら、審議の度に裁判所に公示されていたものであり、このことは既に、多数の人の目に触れている事実である。
三保子は下川有恒氏と結婚後離婚、恩地家に、長男・宏、次男・惇を伴って戻った。彼らは、孝四郎長男・邦郎の生存中に、邦郎、孝四郎次女暁子の長男と同じ権利を土地について要求し、応接間の中央より奥の部分(その土地上にアトリエ、展子レッスン室などが存在、家屋は最終的に邦郎が所有)を取得、邦郎生存中より、その土地利用について親族会議が行われたが、邦郎が亡くなるとそれを買い上げるよう展子に申し入れ、展子の死後、ついに法的係争に至った。
裁判を起こされたときは、邦郎長女・元子に、すべて壊して更地にするか、土地を買い上げるかの2択が迫られたが、展子が保存、記録していた(家族の献立表、年度ごとの居住地にいたる)資料、データにより、三保子、息子二人の家族とも、私的事情、あるいは仕事により出入りが多く、「一家」としての体裁と実態をもって住み続けておらず、孝四郎の偉業の継承と、妻・のぶの老後の世話の担い手が、邦郎、展子、元子であったことが証明され、宏、惇の要求は棄却された。その後さらに、宏、惇が、東京高等裁判所に控訴、和解にいたった。
遠藤新の堅固な構造に対する信頼を頼みに、元子は、宏、惇の土地上の建物のみを壊す案を提案し、杉並区の建物保存に関わっている建築家たちの協力と、分筆線の調整により、実現に至った。現在、その土地上、および孝四郎が版材として使用した木々などが植わっていた庭の上には、他家が住まいしている。
解体部分については、遠藤新専門の研究者が記録を取り、重要なパーツ、および、孝四郎の創作活動に関する資料、孝四郎が使用した道具類は保存された。
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遠藤新建築のアトリエなどの解体にいたる経緯
原告、恩地宏(おんじひろし、恩地三保子長男)、 恩地惇(おんぢあつし、恩地三保子次男)、被告、恩地元子(恩地邦郎長女)として、それぞれ代理人を立て、審議を経て、和解にいたった。
・平成18年11月8日 東京簡易裁判所民事部に、「建物収去土地明渡等」の調停申立が成される。
・平成19年7月18日 東京地方裁判所民事部に、「建物収去土地明渡請求」が成される(平成19年(ワ)第18251号)。
・平成22年3月26日 東京地方裁判所民事部より、「原告らの請求をいずれも棄却する」という判決言渡が成される。
・平成22年4月7日 東京高等裁判所に、建物収容土地明渡請求の控訴が成される。
・平成23年3月30日 東京高等裁判所民事部において和解が成立する。
その後、宏、惇の土地上の建物収去、元子建物の修復、土地整地が行われた。